本文へスキップ

ヒーリング、遠隔ヒーリング。アチューメントの源流 宇宙の光です。

問い合わせメールはこちら アチューメントのご予約はこちら

TAKESHI&宇宙の光

こちらのページでは、TAKESHIの経歴や自己紹介を行いたいと思います。
TAKESHIは長崎県の佐世保に1959年に生まれています


 若いころは文学や演劇を志すちょっと変わった青年でした

TAKESHIは高校生のころから文芸部に所属し詩や小説を書いていました。高校2年生の時に書いた「詩人中原中也」の研究論文は、旺文社の学芸コンクールで2席に入賞するほどの才能を持っていました。
大学は法政大学の哲学科で学んでいましたが、その後演劇の道にフリークアウト。これは自分たちで作ったセミプロ劇団「拠点劇場」の公演写真です。この頃のテーマがまさに「日本神話」。TAKESHIが今多くの神々と話ができ、また表現豊かに話やリーディングができるのもこの頃に培ったや表現力によるものでしょう


 エコロジストとして自然と共に生きていました  20代

TAKESHIは演劇の活動もしていましたが、22歳の頃、とあるきっかけから伊豆大島で「黒潮祭り」というお祭りを企画しました。野外コンサートや演劇、島おこしシンポジウムなどの企画です。写真は左はしTAKESHI、一人おいてシンセサイザーの演奏者「喜多郎」さんと沖縄の喜納昌吉さんですそしてこの祭りをきっかけとして、エコロジストに転向し、自然と共に生きるという新しい考え方をするようになりました
当時東京の三鷹にあった「ミルキーウエイ」という共同体に加入、10人近くが共に生活しながら、無農薬の野菜を生産し食養を行う一方、太極拳や気功、瞑想などを学びました。また社会活動に関しても、日本のガンジーと呼ばれた西尾昇さんの教えを受け非暴力行動を実践。自ら「銀河通信」というミニコミも発行しつづました。これらの活動を通して、自然や地球の声を聴くことができるようになったのでしょう。写真は畑の収穫祭。
TAKESHIが20代の時は東京に住んでいましたので、毎年夏になると旅行に出ます。日本各地にいる仲間や野菜の生産者、エコロジストを訪ねて、その仕事や生活を見せてもらったり、生きる知恵を学ばせていただきました。北海道から、沖縄西表島まで四国を除いて日本各地をくまなく歩きました。そして有名な神社や山岳信仰の山、寺などもたずね多くの啓示を受け取っています

 治療家としての人生再出発   30代

TAKESHIは鹿児島に移ってきてから、治療家を目指すために鍼灸指圧師の学校に入学することになりました。東京時代から整体や気功を学んでいたのですが、29歳の時、自分自身しっかりとした治療技術と治療のための国家資格を取るために学校に通い、資格を取得しました。そしてそこから、TAKESHIの治療師としての人生が始まったのです。32歳の時から今に至るまで、20年以上もの治療師として活躍しています

 世界各地での学びと啓示の旅  30代中盤

TAKESHIは,鍼灸や指圧マッサージの治療を行うと同時に、気功や太極拳の教室も開催しました。そのために、本格的な気功を本場中国で学びたいと思い、上海の中医学院に1か月余り留学を行い、中国での伝統的な考え方や技術を学びました。
その後、鹿児島で「鹿児島気功同好会」を発足。10年以上にわたって、鹿児島での気功の普及を行いました。また気功同好会は、山川紘也・亜希子夫妻の講演会を行ったり、TAKESHIの最初のスピ系の活動母体となりました。32歳の時から初めて50歳の時に閉会しました。

またTAKESHIは、34才の時に、インドのプーナにある「和尚」と呼ばれる「バグワン・シュリ・ラジニーシ」のセンターで、40日にわたって、メンタルおよびスピリチュアルなセラピーのクラスを受講。瞑想やヒーリングのトレーニングを世界各国のメンバー達と共に行ってきました。この時の経験が、TAKESHIにとってスピリチュアルなヒーリングを行うきっかけになっています。
30代の半ばには、エジプトとイスラエルを回り、イエスをはじめ多くのマスター達達からメッセージも受け取っています。エジプトでは、古代エジプトの神々との出会いを果たしました。イスラエルはまだ観光旅行などができない時代でしたが、イエスの人生の後を訪ねたくて、イスラエルに入りました。TAKESHIは、古代遺跡や神殿に訪れるたびに神様と仲良くなります

 スピリチュアルな経営者として会社を起業 30代後半

仕事の上で起きた大きな転機はTAKESHIが37歳の時でした。それまで勤めていた治療院を退職し、自分自身の店舗を、鹿児島市の天文館に作りました。1997年の当時では珍しく、指圧マッサージだけでなく整体やアロマテラピー、リフレクソロジーなどを提供するお店でした。お店の名前は「からだ・はうす天文館店」そして翌年には、お客様の要望に応え女性専門の「からだ・はうすレディス」をオープン。そしてその5年後には、野天風呂薩摩いろはの湯の2階に新店舗を作り、会社としての成長を続けています

 世界の秘儀を求めて旅にでる   40代前半

TAKESHIの秘儀を求めるたびはアジアからアメリカ大陸へと広がります。これはマヤ文明のシャーマンの流れを引く方によって、儀式を行ってもらっているところです
この時の旅はメキシコの森の中にあるピラミッド遺跡を訪ねながら、マヤの教えを学び、祈りや瞑想を行い自分の過去世の浄化を行った旅でした。
またパワースポットとしても有名なセドナにも行きました。この写真はセドナのヴォルテックスで、瞑想している時の写真です。この時はセドナだけでなくアメリカインディアンのホピ族の居留地を訪ね、彼らの神聖な場所を尋ねることもできました。またガイドのナバホ族の女性とも過去世でのつながりがあり、涙だらけの旅となりました。
ハワイに旅した時もそうでした。各地に残るヘイアウと呼ばれる聖所に立ち瞑想すると、さまざまなことが思い出されます。そして、昔シャーマンやヒーラーを育てていたヘイアウや王家の女性が出産のために祈ったバースストーン等、多くの場所でメッセージをいただきました

 宇宙の光を主宰し多くのアチューメントを創始 40代中盤


からだ・はうすの仕事も、からだ・はうすいろはの湯店の活躍により安定した売り上げが出るようになった頃、久しぶりにスピ系のサイトをのぞいたとき、「アチューメント」という聞きなれない言葉が飛び込んできました。レイキの遠隔治療のようだけれど、女神の名前がついていておしゃれな感じがしました。
そこからアバンダンティアのスクールを開催していうちに、自分たちにも女神やマスター達が降りてきて、メッセージやエネルギーを与え始めたのです。私は新たに「宇宙の光、炎、愛」というグループを作り、新しいアチューメントンの創始に取り掛かったのです。今になってみれば、すれはすべて女神やマスター達の仕組んだことでした。
その後100人以上のメンバーが集まり、聖母マリアや聖なる観音、女神イシス、そして星の女神と呼ばれる4人の女神たち。癒しと覚醒のためのシステム「ワンネス」などのアチューメントを次々と開発していきました。

 マスター達の指導のもとに会社も発展 40代後半


そのころの私は、会社の経営もマスターや女神たちと話をしながら運営するようになりました。そして「からだ・はうす」に続く新しいブランド「シャプラ」を生み出し、アミュプラザ鹿児島やサンロイヤルホテルに新しく展開。また鹿児島や霧島市の商業施設にも出店し、会社の規模をどんどん大きくしていきました。現在は県内に6店舗のお店を持つ南九州最大のサロン運営会社となりました。


 さらなる旅へ アチューメントの再創造


ワンネスを生み出した後にしばらくは仕事に集中し、最新ブランド「SUAI]を立ち上げたり、国分店を拡充したりしていましたが、再び50歳を契機として旅に出始めました。
今回はトルコの古代遺跡めぐりです。ローマ時代の遺跡を中心に古代の神々をまってある神殿やトロイの遺跡、私にとっては、どこかに出かけるたびに、メッセージやこれからのヴィジョンを受け取ります

2012年あることをきっかけとしてTAKESHIはまたスピリチュアル界に呼び戻されました。それが天照大御神のアチューメントの創造でした。それに伴い、今までのアチューメントが、今の時代に則したより効果的なアチューメントに生まれ変わることとなりました。
そして、TAKESHIは今まで行ってこなかった、一般向けのアチューメント&ヒーリングを2013年からスタートし、希望するすべての人にアチューメントを行う活動に入ることとなりました